大塚英志

論壇の人っていうより、漫画原作者っていう方が有名かも。現在、「戦後民主主義の子供」なんて呼ばれちゃったりして、憲法擁護派、護憲運動なんてやっている。宮崎勤と関わり続けたひとっていうのもあるかな。原作者な現場ではよくよく出版社と喧嘩するみたいで、著作を追うのは正直ちょっと大変かも。――とても綺麗な文章を書くひと。その綺麗さは、真摯なまなざしからいずるものだなんて勝手に思ってるわたしだ。(ひゃー、メルヒェンー)

 「戦後民主主義リハビリテーション
   - 飽食の僕

人を殺せと言われれば殺すのか

殺らなきゃ殺られる、それだけだろうが!

ここ数年、話者によって百八十度も意味の変わってしまう単語が増えてきている。「人を殺せと言われれば殺すのか」という何だか凄い表題の本の中の文章のひとつ。
「何故人を殺してはいけないのか」。実際問われていた14歳の時は、何をまた、ねえ?と遠巻きに眺めていたあの議論には、「殺したい欲望」が射程に入ってた。(ええと。1996年のことだったかしらね)現在、2005年。世紀末が終わって五年も経つ。「人を殺せと言われれば殺すのか」――この問いかけは、「殺したい欲望」がわかりにくーい、感じになっている、ように思う。
テレビからは撤退したと何度も表明していたのだけど、ゴメンナサイ、機動戦士ガンダムSEED DESTNYだけは見ています(笑)そういう訳でガンダムSEED。(どういう引きなんだか)遺伝子的に優れたコーディネイターと、ナチュラルの戦争に巻き込まれていく子供達の物語――すなわちキラ達につきつけられたモノこそ、「人を殺せと言われれば殺すのか」という命題だったといえ…ないかな?(うむむ)「それでも守りたい世界があるんだ」「殺らなきゃ殺される、それだけだろうが!」「戦争を終わらせたい」――えとせとら。子供たちは絶対に「殺したい欲望」を見せることはない。全ては「殺せといわれれば殺すしかない」理由でしかない。(後半、キラは殺さないけれど)殺したい欲望を発露させるのは、復讐に燃えるザラ議長だったり、嫉妬心(?)に燃えるアズラエル理事だったり。
アスランだってニコルの復讐の為にキラを殺したんじゃあ?(未遂だけど)というのは早計、アスランがキラを殺そうとしたのは、「放っておけば大事な人間を殺されてしまう」からっていう流れに見える。。カガリの言葉の通り、「お前を撃ちたくはない、だけど、お前はアレで地球を攻撃するんだろう?地球の人たちが死ぬんだろう?」。
「殺したい欲望」はあくまで他者のモノである限りにおいて、「自衛のため(誰かを守るため)」というロジックが説得力を持つ。だけど。関東大震災直後に起きた在日朝鮮人虐殺も、「朝鮮人が井戸に毒を投げた」とかいうデマに怯えたひとたちが、「自衛」のためにやったこと。かくも危うい「自衛」の言葉。「人を殺せと言われれば殺すのか」という言葉はこの自衛っていう言葉を越えられるだろうか。越えて届くだろーか?
「何故人を殺してはいけないのか」の時は自らの攻撃性を見つめていたような気がする。(いや、自らのことじゃなく、ワケワカラン最近のワカモノらを諭すためにと語ってた人たちが大半だったよーな気もする。あれ、今と変わらんか)何だか、世界ってどうなるかワカラナイんだな、と途方に暮れた。自衛権がどーの、とは良く良く聞いた。そして過剰防衛という言葉を最近耳にしていない気がする。わたし、怯えすぎて視野狭窄に陥っているのかしらん。

伝達すること、感じること、示唆になるもの。

ここ数年話者によって百八十度意味の違ってしまう単語が増えてきている。著者の斉藤貴男は「市民」と「民主主義」をあげていて、何だか民主主義にはリベラリズムリバタリアニズムとかゆーのがあって、それで百八十度の違いが出ちゃうみたいな、らしいんだけど。
とりあいずもっとすごーく根本的なところに戻って、言葉っていうのは無力だ、と思う。そう、田嶋陽子が英語のヘルプと日本語の助けるじゃ大分ニュアンスが違ってくると言ったけれど、それと同様に矜持とプライドじゃあ大分ニュアンスが違う。否、同じ日本語で喋っていたにしても、わたしが矜持という時の切実さはわたしだけのものであって、ぐーぐるでHITするどれにだって在り得ないものだ。みんなそんな風に、言葉に込められた想いは個別な筈だ。だからこそ、伝わらない。
反面、だからこそ、伝わるだとも想う。…うーん、伝わるっていうと語弊があるかも。共鳴する…?前も書いたよーな気がするけど、「見るものの示唆となるのはその人の見ている地平じゃないかしら」。ヒョーゲン、ってことかなあ。上手くいえないけど。
しかして、伝達のみを目的とするなら言葉ってすっごく無力だと思う。というか伝えられるなんて傲慢だ。誰かにとって示唆になるかもしれない(それは意図しない意味でかも)、それ以上のナニがあるだろう。(学問的なトコは置いておいてね)
SEEDはニュータイプのアンチとしてあるんだっていう。ニュータイプなんて嘘だ、話し合ってわかりあっていかないといけないと。そのわかりあう、はFEELに近しいニュアンスなのかしら、それともUNDERSTAND?――SEED DESTNYを見ながら、そんなことを考えている。まだまだ感じ取れないでいるのだけど。
(うっわあ、久々に書いたら何だかとりとめのないことに)

「クラスの女の子」たちのような健全さに向けて

主語故に情緒は生まれることでしょう。

藤たまきというあまり有名でない、モノローグのとても綺麗な作品を書く漫画家さんがいる。
わたしが彼女の作品に初遭遇したのは「私小説」という作品でだった。度重なる引越しのため手許にその本が残されていないため正確な引用は出来ないけれど、自分の思いや心がわからなくなったりしたら文章を書いてみるといい、というようなシーンがあった。夢というのは起きている間に起こったことを整理分類するために見るものだなんて聞いたことがあるけれど(本当なのか未だ仮定の話なのかは知らない)、なら文章を書くというのはあぶくみたいに沸いては消えてまた沸いてくる様々な思考の整理分類のためにしてしまうことなんだわ、きっと。
――とばわたしは思う。文章を書くということにはすべからく私小説的な部分が付き纏う。多分ね。(だけどこれってわたしが日本人だからそう思うのかも。日本語っていうのは私小説的な言葉だって誰かの文章で読んだ事あるような気がする。日本語しか操れないわたしにはどうにもピンと来ないけど…)
私小説っぽい、自意識系なことってわたしが若い頃(例えばエヴァンゲリオンが流行したり、精神科医が妙にひっぱりだこになってたり、何故人を殺してはいけないのかとか連日テレビ特番で取り上げられたりした頃)は語られやすかったきらいがあるけれど、今はすっかり流行遅れなのかナリを顰めている感じがする。華原朋美ちゃん達とかAC色の強い女の子は時代遅れになり、ACだけどそんなコトはどうでもいいの病気だしと歌う椎名林檎ちゃんも今や見かけないとか。(最近は全然知らないんだけどさ。どうなのかしらん)
変わって「ネタ」という文字をよく見かける。そのネタという言葉にわたしは何だか反転した自意識を感じてしまったりして、ちょっと困惑してしまう。文章を書こうとすれば否、何かを語ろうとすればいやがおうもなくつきまとうんじゃないか自意識を無理矢理不問にさせているみたいでだ。ツッコミ以外の視点を封殺するような、感じ。(――A.Tフィールド?)別にわたしはその振る舞い事態を何だかな、と思う訳じゃない。ただ、そうした態度で何かを(それは恐らく自らの自意識から表出したもの他ならないだろう)主張することはやはりズルイんじゃないかとは思う。半分「ネタ」の姿勢で暴言を吐いてみたり、揶揄してみたり、誰かを糾弾してみせたりなこと、それが「祭り」となって地味に大きな言論になっちゃっう、そんな感じ。「ネタ」なんだか「わたしの考え」なのかどっちつかずな言葉が在るような気がする。「ネタ」だと言えばそこにあるのは「ネタに乗る俺」「ネタのわかる私」ってだけで、発言に対する主体性が置いておかれる感じ。(ちょっと過剰反応だなと書きつつ苦笑したりもする、そういう半分ネタな方法もあっていいこともわかるんだけど、何だろう、程度とかバランスとか言っていいこととかそれを言ったらいけないっていうコトだとか…)

主語を失った述語は暴走する

ふと、様々にわたしに示唆を与えた批評というジャンルとは何なのか。と考えさせられることがあった。というのも書評のコミュニュティを覗いていての考えだった。書評とは何か、と始まり、構想などの評価を下し、読むべきであるか読まないべきであるかの評価までを裁断するのが海外における書評、だっただろうか、あれ、と違和感を感じたのだ。わたしに示唆を与えたソレとは、「そういうもの」だっただろうか、と。何より書評をデータベース化するという試みに違和感を感じた。批評とはそれ一個のものじゃないだろうか――?(そもそもわたしはデータベース化の概念があまり好きじゃない、という個人的資質もある。わたしはデータベースでなるのではなく、様々な濃度からなる水溶液だっていう感じがする。ある試液が垂らされれば反応する、みたいな。蛇足だな)

http://blog.goo.ne.jp/gelt/e/1a16cb83233861c56a5df0730e438632
http://blog.goo.ne.jp/gelt/e/b8385f9360216d4751e7ee91e41d786d
http://blog.goo.ne.jp/gelt/e/b4dac9b35802fe40433fccfe25190e44

(とはいえ検索するとまったく簡単にこうゆう文章が発見できてしまうんだから、やっぱりデータベースっていうのは便利な方法なんだよね)
膝を打ったのは、「批評と詩・論文の違い」のユダヤ人消滅論にの下りだった。文章を読むとドキドキすることがある、血が全身に行き渡っている感じ。また蛇足。批評には論理とともに情緒がやはり必要となるのだ。そして思うは森達也の言葉、「しかし他者を想像する場合の主語は、あくまでも一人称のはずだ」。そうしてわたしはやはりどんな文体や方法をとりつつも、主語の所在を見失うべきじゃない、と思う。批評っていうのは裁断するという意味から出来た言葉というけれど、何を汲み取ろうかとする主語により様々な裁断の仕方になることでしょう。読むものの示唆となるのは、その主語の汲み取ろうとしたモノ、あるいはその主語の見ていた地平じゃないかしら。(だから、それを分類という網の目にかけるのは忍びなくて、…わたしって情緒の強い方側の人ね)

さて結論にして。

文章を書くということはある種の被害者意識から出発している、とあられもない本音をあっけらかんとぶちまけちゃったのは大塚英志です。この被害者意識っていうのは、わたしとかのよく使う、「違和感」をぶっちゃけっちゃった言葉、かなと思います。違和感とはいうけれど、実際そこに(それはとても自己中心的な、あるいは被害妄想的な)被害者意識が原因のひとつになっていることは否めないもの、認めちゃう。主語から逃れようとする振る舞いは、この被害者意識から目を背けてしまうことのような、気がします。
この文章と同じ表題の文章にて村上春樹石原慎太郎の対比を引き合いにしながら「被害者意識を出発点としながらもどうやったらもう少しまともな言論を築いていけるか」と書き記している。(世界の中心か片隅かは知らない、ところで喋る。 - кинохроника
わたしは、「主語を忘れないこと」じゃないかなと思う。つまり、そーゆーブログ(のつもり)だ。踏み外しちゃわないように、気をつけたい。
(小中学生の頃はひねくれていてシニシストなのかペシミストなのか何だかよくわからないけど(多分その時にちゃんねるがあれば、にちゃんねらー(笑))斜に構えて気取っていて、とうとう「クラスの女の子たち」側に入らないままだったわたしだけど。うわ、役不足

煩悶中

駄目だ。
最近酷い文章ばかり書いている。
書こうと思って書くものは駄目だね。
やっぱりそれなりの思いと知識とがないと――。
殆ど拒否反応的に臆面のなさを嫌う癖に、それを無理矢理語ろうなんてして臆面のない文章を書き記す感じ。
恥ずかしー…ケド、戒めとして残しておきます…。
あやまってどうしようもない文章を読んでしまった方、本当にごめんなさい。

主語の中の断絶

引用する私。 - кинохроника
より引き続きオレンジレンジを引き合いにしてば。
ところで例のインタヴューでは彼等の振る舞いはこんな風に評されている。

高田延彦の自伝並みにシュートな発言だが、マジかジョークかはともかく、そこにネガティヴな要素をまったく感じないのが何だか新しい。思うに、愛情に満ちた模倣と誤解の限りない積み重ねがロックという音楽である、とも言えるわけで、考えようによってはサンプリング思考である。それより何より、ORANGE RANGEの出す音が、そんな先入観を吹っ飛ばすほどにカラフルでキャッチーで吸引力抜群なのである。恐ろしく前向きな、ポジティヴな誤解をエネルギーに変えたアルバムである。

ただ、アイドルっぽく見られるのはどう?と水を向けると、「ビートルズだって、アイドルだったけど音楽はちゃんとやってた」と返すあたりにホンネがチラリ。うん、彼らにはまだまだ、口で言う以上に奥深い何かがありそうだ。
http://www.bounce.com/interview/article.php/1081

インタヴュアーの本当の意図なんていうのはわからないけれど、わたしはこのインタヴュアーの文章を読めば、「岡崎京子の「ヘルタースケルター」の主人公りりこみたいに『ほら、こんなの聞きたいんでしょ?』と好奇心やミーハー心を掴みつつ、一方でそんな自分を露悪的に語りながら敢えて誤解を呼び込み、果てはその誤解さえもポジティブなエネルギーに変える底知れないミュージシャン」なのかしらん、とか勝手に妄想してしまう。そう、彼らは無自覚な引用者ではなく、ジャンクの中から全体性を獲得しようとする「村上春樹側」の人なのかしらと思わせる。(はっきりいって本当にオレンジレンジをわたしは曲で知るのみだから完全な妄想です)
ただの妄想であるから、そんな意図じゃないやと嘲笑されてしまうかもしれないけれど、わたしはそう感じられた。そして思う――これだけ叩かれるということは、みんなわたしのようには受け取れなかったのでしょうか、と。ひいては、何故こんなにも叩かれちゃうのかしら。

理由として考えられるのは三つでしょうか。

  1. オレンジレンジの他の活動やインタヴューを見る限り、そうは思えなかった。
  2. インタヴュアー、オレンジレンジの発言の言下まで読み取れず、ただ<パクろうぜ!>の言葉にみんな動物的な反応をしてしまった。
  3. てかともかく著作権侵害は犯罪だ、人間性とか戦略なんか関係ない。

1であるかどうか…はわたしには推測がつかない。
2についても…どうかはわからないけれど、これについてはそういう空気もあるんじゃないかしらと邪推しちゃう。
「最近の子は文脈が読めないんじゃないか」とは荷宮和子だったかしら。
行間に込められた感情を読み取れて居ない、と「NANA」の読まれ方を引き合いにだして書いていた。(該当文章が見つけられないのでとても曖昧な記憶で書いているけれど)
たまに掲示板の議論めいた書き込みを見ていればそれは実感として感じられる。
引用符>で論旨には関係のない部分や、少し拙いめの文章だけを抜き出し、そこだけをあげつらう様子は、まるで作法なのかしらと思うくらいに多く見られるような気がする。
そりゃ、論旨を完全に読み取るなんて難しいし、間違えちゃうこともあるだろうし、わたしも多分的外れなんて色々してるし――…
しかしそれにしても、文脈っていうものを気にしているのかしら、って思っちゃうことはよくあったりして。

私事の引用だけれども。
ある時よく行くチャットの掲示板にて「ある趣味――平たくいっちゃうとBLとかジュネ好きの人たちには迷惑利用者が多い」と槍玉にあがったことがあった。だけど少し考えれば当たり前な通り、別にBL趣味の人なんてカテゴライズをする意味なんかない。
「そういうカテゴライズの仕方って、外人には犯罪者が多いよなと話し合うのと一緒じゃないかな?」
そう問うた時、決して人間的に悪い人間でない友人はこう答えた。
「本当にそういう人が多いなら何らかの規制をされても仕方がない」
掲示板でも「仕方ない」という意見が多数派のようだった。
――少し後、彼は同じ口で痴漢冤罪を批判した。曰く、全ての人が痴漢なわけじゃないのに自意識過剰な女が一人いれば男に言い訳はできない、云々。
それは「本当に痴漢をする男が多いから何らかの規制をされて仕方ない」事態として出来た冤罪だ。
規制する側の時の言葉と、規制される側の時の言葉の間の断絶。そこに文脈なんてない。
森達也は主語を失った述語は暴走するとはいうけれど――…
文脈を失えば主語を保存したままで述語を暴走させることは可能になる。とかね。

3は尤もだけれども、『犯罪だから』というだけが叩く動機となるかについては少しだけ考えてしまいます。著作権は繊細な問題だし(庵野秀明エヴァンゲリオンも膨大な引用の集積であるし、村上春樹も。――音楽と比較するのも何だが)やっぱり気に食わない、と感じる気持ちというのはそれのみではないのじゃないかしら。デスノートの月君みたいに、みんな毎日犯罪者のことを考えている訳じゃないんじゃないかしらん。

引用する私。

しかし「引用」や「カヴァー」といったレトリックで自らの行為を語るとき、「オリジナル」はパレットの上の絵の具のごときただの素材として無化されて、「引用する主体」が作者としての特権を手に入れてしまう印象がある。つまり、「オリジナル」の作者の主体を一方では消去しつつ、「引用する主体」としての作者が強く主張されている。
大塚英志/戦後民主主義リハビリテーション/サブカルチャーである、ということ)

オレたちの中の合言葉は〈パクろうぜ!〉です(笑)。まずはカヴァーするんですよ。で、ここをわかんないようにしようとか、ここ使ったらバレるだろ、とか話し合う(笑)
http://www.bounce.com/interview/article.php/1081

オレンジレンジが叩かれる切欠になったっていうインタヴューを読んだ。(いつもの如く遅い話題なのは、やっぱり彼らをあまり知らないから)
パクろうぜ!>の一文が恐らく多くの人達の反感を買ってしまったみたい。
それは大塚英志が看破したような、「露悪的」に、或いは「さらりと」自ら「引用者」だと名乗る彼らの密かな「特権性」をみんなが感じてしまったからかしら。あるいは「オマージュ」という言葉であったなら、これほどまでには誰かを逆撫ですることもなかったのかしら。(さてそういうわたしの文章もまたさまざまな引用に満ちているのだけれど)

大塚英志は同じく「ジャンクの寄せ集め」で「全体性」を志向した村上春樹、あるいは庵野秀明を肯定しつつ、ただ無邪気に「サンプリングする主体としての特権性を主張しながらしかし、引用してきた断片を統合していく意志や方法を屈託なく欠いている、しかも欠いている、という意識さえない」引用者たちを肯定しない。

オレンジレンジに、全体性はあるのでしょうか。
この問いにはあまりオレンジレンジを知らないわたしにはわかりかねます。
オレンジレンジ的な世界観をつくりだしたり、或いは華原朋美ちゃんやモーニング娘。みたいに物語を作り出していったり、そういう努力こそが望まれるものであって、盗作をやめればいいという話でもないのかしらん、とふと考えたのでした。(そしてこの考えは自分にも降りかかってくることであり。気をつけたいとは考えますが…)

関連:主語の中の断絶 - кинохроника

悪人正義

ちょうど酒鬼薔薇聖人君と同じ年だった。
何故人を殺しては行けないのですか、なんて問いが流行したことを覚えている。その議論が真摯だったか陳腐だったかは置いておいて、まだあの頃はそういう受け止め方をするっていう方法が存在したのだなと思った。――あの時、ただ流行に乗っただけだったかもしれないけれど同調した人たちは、酒鬼薔薇聖人君が社会復帰の報を聞いた時にどんな態度を示したのかしら。

また同じことをするのではないか、人を殺した人間が元の人間に戻れる訳がない、反省なんてありえない、身をもって彼に知らしめてやれ、人殺しは死刑にするのが・・・

「人権を守る会」に寄せられた意見の中の言葉。ゾッとした。
14歳の頃は、人を殺してはいけないか、なんて何をまた――・・・と半分呆れてはいたけれどこんなにゾッとはしなかった。怖い。酒鬼薔薇聖人君よりも、怖い。
罪悪感もなく人を殺せと言えるメンタリティという点で、あの時の彼と今の彼らは相似形をしているように見えた。勿論、酒鬼薔薇聖人君が信じたものはバモイドオキ神で、彼らの信じるものは社会正義という違いはある。だけど、どちらも信じるものの価値を絶対としている点ではやっぱり同じに見えるよ、とわたしは思う。
それはあまりに誇大妄想だとしても、やっぱり「何故人を殺してはいけないのか」と語り合ったその口で、「殺してしまえ」と言っているわたし達は、どうしちゃったのでしょう。

宅間守の死刑執行の報を聞いて、やっぱり同じように怖かった。
その時既にテレビは見ていなかったから、皆がどんな風に受け止めていたのかはうかがいしれない。顔も名前も知っている、弁護士に「あんたが俺のオヤジだったらあんな事件は起こさんかったかもしれん」と語ったと知っている、ついこの間まで生きていた彼を、わたしが属するわたしの国が殺した。勿論宅間守のしたことも、酒鬼薔薇聖人のしたことも、許されることじゃない。だけどそれと「わたしたちが殺した」こととは別じゃないかしら。

(彼らを思い出したのは、反日デモについてをつらつらと考えていてだった。靖国だとか愛国だとかいうわたしたちは、中国の人たちからすれば「酒鬼薔薇聖人君がまたバモイドオキ神とか言い出した」と同じような恐ろしさを感じる事態なのではないかしらと思ったから。酒鬼薔薇聖人君を殺せ、或いは一生閉じ込めておけとしか叫べないわたしたちの鏡かもしれない。)

皆さんで悪を滅ぼそうではありませんか

これはわたしの時折覗く掲示板の書き込みで、「悪=迷惑利用」の意味だ。・・・もしかしたら「悪=迷惑利用者」かもしれない、そこは曖昧に使われているように見えるのは否めない。
こんな一行にも、罪悪感の躊躇いを感じられないわたしがいる。
確かに、酒鬼薔薇聖人君のしたことは悪かもしれない、宅間守も、迷惑利用も、悪というものなのかもしれない、だけど正義の側からそれを断罪しちゃうとき、悪は生まれていないのかしら。その悪は誰が裁くのかしら。

反中が怖いよというわたしに友人は、今は一過性の盛り上がりで、そのうち落ち着いたときに反省するよ、とシニカルに言う。だけど反省しないで忘却してきた歴史が呼んだ問題にそういう態度をとるのはどうかしら。それに反省を許さないで殺してしまえと叫んでしまうわたし達にそんな資格はあるのかしら。