世界の中心か片隅かは知らない、ところで喋る。
わたしは、フェミニスト、かもしれないひとです。
――かもしれない、と言うとなんだか自分の立ち位置を曖昧にして安全圏でモノを喋ろうとしているみたいだなあ…。
そしてそう考えるわたしというやつはなんと自己防衛的なのだ、という果てのない自己分析にも似た自己分析はさておき。
わたしがフェミニズムを知ったのは大塚英志の「『彼女たち』の連合赤軍」でだった。
それから上野千鶴子に小倉千加子に田島陽子に北原みのりとフェミニズム関連の書籍はとにかく数多く読んできたのだけれど、わたしにとってのフェミニズムはやはり大塚英志のいうソレであったりする。(いや、大塚英志はフェミニストではないけれど)
これは脱線になるかもしれないけれど、この話を聞いて村上春樹が以前、どこかでこんなことを書いていたのを思い出した。
中学か高校の時の話で、村上春樹がクラスの被差別部落出身の女の子に、被差別部落を意味することばを意味もしらないまま口にして、クラスの女子全員から口をきいてもらえなくなったという経験だ。村上春樹はしばらくして女の子たちからその理由を説明され、そして手許にないので正確な引用はできないが、彼はこのエピソードは自分達の世代のある種の健全さを示すものとして誇っているといった意味の結び方をしていたように思う。
(大塚英志/戦後民主主義のリハビリテーション/「クラスの女の子」たちのような健全さに向けて より猫抜粋)
これは、石原慎太郎都知事が「三国人」発言をした頃の文章だ。
大塚英志はこのエピソードの見解は両極端にわかれるだろう、という。「村上春樹に同意するひと」と「これを戦後民主主義の鼻持ちならないエピソードとして嫌悪するひと」とに。そして後者の立場からは以下のような見解がでるのではないかとし、そしてそれらは石原慎太郎の自己弁護や擁護する言説にとても似ていると指摘する。
- 集団でひとつの考えにまとまってしまい少数の言論をよってたかって抑圧するのはよくない。相手をたったひとつの正義に屈しようとするのは一種のイジメだ。
- 被差別部落の人は差別だと叫ぶことで何かと配慮されていたりするのだから、それは逆差別ではないか
- 村上春樹はそもそも意味も知らず、差別する意味で使ってないのだからいいのではないか
- クラスの女の子たちも、「差別はいけない」という戦後民主主義的な空気に乗っかっただけじゃないか
僕は必ずしもこれらの見解がまったく間違っているとは思わない。
ただ根拠なく「差別はいけない」と考えてしまうことも、数の力で相手を多数に屈服させることも正しいこととは思わないが、しかしそれにもかかわらず、僕は二人の文学者のうちどちらを支持するかといえば、やはり村上春樹の方になるのだ。
…長い引用になってしまったなあ、この文章はわたしの読書経験において最もいとおしいものである、といっていい。
人様に本を薦めるというのはあつかましいような気がしてあまりしないわたしだけれど、この「戦後民主主義のリハビリテーション」の「『クラスの女の子」たちのような健全さにむけて」の部分だけは読んでみてくださいと書き記したくなってしまう。
と話がずれてる。
わたしにとってのフェミニズムとはつまり「クラスの女の子たち」のような健全さだったり、そしてそれを支持する大塚英志の感性であったりする。
…それをフェミニズムと呼ぶのはおこがましい気もふつふつとしないでもないのだが。
なんだかとても曖昧な文章になってしまった…(またかわたしよ)
大塚英志のこの文章についてはまた触れてみたい、として――わたしはこういうものこそを愛でる立場で喋るものですという、ことである。