政治的な事だといった時、何かを免責されるような気がする。

ニュースやブログなりをふらふらと見渡しながらやっぱり拭えない違和感に困惑してしまう。

わたしは「反日教育」を必ずしも否定はできないと、やっぱり感じる。
陰謀史観みたいに、国によって煽られた中国国民とか捩れたナショナリズムとか色々な言葉を見かけたけれど、やっぱり浸透したのはそれなりの素地と歴史的事実があったからに他ならない、んじゃないだろうか。
ところで中国は「血縁社会」で日本は「共同体社会」なんだっていう。わたしは日本人だから、やっぱり共同体社会的なメンタリティを強く内面化している。本当か嘘かは知らないけれど、「血縁社会」では一度も会ったこともない人でも「家族」であるなら抱き合うくらいに血縁の繋がりが濃いんだって聞いたことがある。そんな感覚の人ならば「一度も会ったこともない祖父を殺した日本人」は未だ終わらない現実なのかもしれないと想像する。わたしだって近しい人(これが共同体的感覚?遠くの親戚より近くの他人。)を殺されたら絶対に許せないだろう、国益も何も関係なく憎んで憎んで憎んで、石を投げつけて怪我をさせても平気な気分で、むしろまだ殴り足りないと思うかもしれない。そういう気持ちを、「国同士の問題だから」って「政治的」な所ばっかり言っておざなりにしちゃう(それは中国側の問題である、作為ある(と思われる)反日教育に問題はある)のは、ちょっとみっともなくはないかなって思う。
じゃあ何が出来るっていうんだよ、って言われると困っちゃうけど、そんな感覚の誤差から来てるものかもしれないと考えたら「お前のトコだって天安門事件教科書載ってるのかよw」とかっていう言い方は少なくとも違うんじゃないかな、とわたしは思う。
キレイゴトだって言われちゃうだろうか、でも60年前、国同士の政治的な関わりっていうのを越えて中国に入り込んでいったのはやっぱ日本な訳で(戦争は国同士の話だけど、実際大切な人を殺された人達にとっては政治の地平にのことじゃなくて「わたし」の経験…だと思う)…それに日本だって国家アイデンティティとか死者への哀悼とか「わたし達の気持ち」をべたっと中国に押し付けてもいるんじゃないかしら。

もうひとつ気になったのは、「フジVSライブドア」で記者クラブが云々という視座はよくよく見られた。
メディアは既に国の御用達にある、って感じの。
ところで各新聞社の社説を読むと殆どが嫌中の匂いをさせている。(わたしの主観だというのは否めないけれど)上記の命題が事実であるなら、嫌中ムードっていうのは国の了解の下にあるってゆうことなんじゃないかなあ、っていうことはわたしたちも国ぐるみで乗せられているんじゃないのか、とか。「反日」を育てる国が悪いとか、そんな国の陰謀に惑わされてみたいな意見も読んだ。わたしたちは違うのかなあ…単に国の意向と各個人の意向とが一致しただけかもしれない、だけどやっぱり高揚しているように見える場所を見てしまうと何だか怖くなっちゃう。

書いていて苦笑してしまう。
みんな「そんなこたわかってるよ、でもそんなことよりXXXのが大事なんだよ!」って思ってそれぞれ主張してるのかもしれない。
何を今更そんなレベルの話をしてるんだなんて思われてしまう類の文章かもしれない。
わたしも進んで文章を書くような人間だから、人よりちょっとくらいは頭良いと思われたいさもしい根性はある。格好つけてでは国際的な観点から…なんて書いちゃいたい凄い臆面のない自分もいたりして。けど、わたしはこういうレベルから喋るのが似つかわしくて、ひとつくらい(っていうと何だかまた上から喋っているみたい(苦笑))そんなところに拘泥するブログがあってもいいのかなあ、なんて…逆に格好つけかしら。